主婦売春の甘い罠今村昌平監督との決別は苦渋の決断だった。俺は師匠を裏切ったのではないか?
正直言って後ろめたさを感じないわけがない。僕は25歳で今村さんに師事し、今村プロの設立に参加し5年間の苦労を共にした。しかし、僕はサイを投げてしまったのだ。もはや、ルビコン河を渡るしかないのだ。さっそく翌日から僕は藤田傳さんとプロダクション設立に向けて動き出した。この時、なぜ、僕らがプロダクションを作ろうとしたか理由はハッキリしない。映画のスタッフの大半はフリーで働いていたし、僕自身も今村プロの運営の困難さは身を持って知っていたはずである。それに藤田傳さんは劇団「俳優小劇場」で給与を貰っている劇団員だったのだ。もっと分らないことは、プロダクションを設立すれば事務所も必要だし電話を引く資金もかかる。僕にはそんな大金があるはずがないし、藤田傳さんが持っていると思えない。今になっては分らないことばかりなので、先日、藤田さんに電話して聞いてみた。
「それはね、タケちゃん。『神々の深き欲望』の撮影が終わってから、友だちから頼まれてTV番組やったり、ジャルパックのCMをやっていたのよ」
「それって、昭和44年のこと?」
「そうよ。イマヘイさんがT子に狂って、タケちゃんが借金返済に走り回ってたころよ」
そのころ、藤田さんが西村晃さんとTVの特集物をしたりしていたのは聞いていたが、CMや企業のPR映画(現在のビデオ・プロモーション)の演出をしていたなんて僕は知らなかった。映画産業はどん底にあったが、日本経済は右肩上がりの時代で、各企業はこぞって自社のPR映画やCMに莫大な宣伝費をつぎ込み始めた時代だった。新たに現出した映像界は人材を求め、異才の演出家・藤田傳にもCMプロダクションを作る事を勧めたらしい。
そうしたバックアッパーが何人か集まり、プロダクション新設の話が出てきたのだと傳さんは教えてくれた。そうだったのか。僕は当時の事情を聞き納得した。7歳年上の藤田さんは、僕よりはるかに社会を知っていたのだ。藤田傳さんは今も78歳の現役の創作演出家として活躍している。そして40年前の記憶もしっかりしているのに驚かされた。
そういえば、傳さんに連れられて八重洲口のビルに事務所を見に行ったことを思い出した。ビルの3階に知人がプロダクションを持っており、隣に小部屋が空いているので安く貸してくれるのだという。その知人は超大物右翼の息子で、官公庁の映像コンテンツの制作をするプロダクションを運営している人物だった。どちらかといえば左翼的な傳さんが……と驚いたが、彼の清濁併せ呑む人脈の広さにも感心させられた。
「実は昔の劇団の友人で河村という面白い男がいてね。彼が企業PRセンターという小さな広告代理店を作ったのよ。河村は男気がある奴だから、ジャルパックのCMも受注出来るから大丈夫だよ」
傳さんは僕に向かって、「仕事はあるから心配するな」と笑った。
翌日、僕は傳さんに連れられて神田の細長いビルの広告代理店を訪ねた。エレベーターで7階に着くと、分厚いドアの向こうから何やら大きな怒鳴り声が聞こえてくる。これが広告代理店なの? ヤクザの事務所と間違ったんじゃないか? しかし、ドアには洒落たロゴ文字で「企業PRセンター」の社名が見える。戸惑いながら事務所に入る。奥へ案内されると、ヤクザも驚く大声で社員を怒鳴っていた河村社長の姿が見える。なんて大きな声なんだろう、まるで街宣車のラウドスピーカーみたいだ。
「おお、忙しそうだね」傳さんの声に不意にスピーカーが止った。河村社長は、傳さんと僕を見ると急に優しい顔になって出迎えてくれた。若いころのリノ・バンチュラに似た立派な顔をした人だ。サントリーの缶コーヒー“ボス”のモデルのおじさんを若くした容貌とでもいおうか。これが、僕と企業PRセンターの社長・河村清信氏との初めての出会いだった。この河村清信さんは、やがて僕の兄貴分になり、40年後の今もなおお付き合いしている大先輩である。
僕らのプロダクション設置はゆっくりだが、着実に進みつつあった。そんなある日、今村さんから電話があり僕らは幡ヶ谷の喫茶店に呼ばれた。今さら、何だろうね? マージャンの誘いじゃないの? 2人でそんなことを言いながら喫茶店に行くと、今村さんは開口一番、「プロダクションは巧く行かないだろう?」と畳み掛けてきた。なぜ、そんなことを言うのだろう? 「まだ、2週間ですからね……」監督の真意を測りかねて僕は遠慮気味に答えた。
「いや、君たちがお金に困ってると思ってね。お小遣いを上げようとアルバイトを持ってきたんだよ」
「アルバイトって?」
「実は主婦売春のドキュメンタリーをやろうと決めた。その調査を君たちに手伝って貰いたいと思ってね。それなりのギャラを支払うつもりだ」
「主婦売春って?」
「春日部の某団地の奥さんたちが亭主の出勤後に売春で小遣い稼ぎをやっている。昭ちゃん(小沢昭一)が持ってきた確実なネタだから、やってみようと決心した。こりゃ、面白いぜ」
今日では珍しくもない話だが、当時は出会いサイトなどない時代である。今村さんがいうように、確かにスキャンダラスで、家庭崩壊や繁栄の負として社会問題の切り口にもなる。
「本当ですかね?」
「間違いない、新聞記事にもなり始めた」
今村さんはテーブルに新聞の切抜きを広げた。
「君たちに団地での調査をしてもらいたい。尾行して現場を確認して欲しいんだよ」
今村さんは、少し懇願するような目で僕らを見詰めた。
2日後の朝6時、僕らは春日部団地の隅に車を止めて、望遠鏡で目的の部屋を監視していた。人影もない団地で、車中から監視している姿は犯罪者そのものだ。こんな早くから売春に出て行くはずがないのだが、一日の正確な行動記録が欲しいと今村さんがいうので仕方がない。
7時から8時にかけて亭主族の出勤が始まり、9時になると団地のベランダに洗濯物を干す主婦たちの姿が見え始める。僕は時間とそうした住民たちの行動をノートに記録していくのだが次第に眠くなる。そうだろう。僕は朝の4時半に起きて、車で傳さんを迎えに行き、春日部までやってきたのだ。うつらうつらし始めた時、傳さんが肩をゆすぶる。
「タケちゃん、女が出かけるようだよ!」
見ると、35歳半ばの派手目のワンピースを着た女性がわれわれの方へ向かって歩いてくる。
「気付かれたのかな?!」
一瞬、顔を伏せるが、女は駐車場の1台の車に乗り込むと団地を出て行く。腕時計を観ると11時半だ。
「ラブホテルに行くんだろう……」
僕はゆっくり彼女の薄グリーンの車の後を追い始めた。
車は国道4号線に出ると、東京方面ではなく北(東北方面)に向かって走っていく。千住や鶯谷にはラブホテルが多いが、主婦売春は人目に付かない郊外のラブホテルを使うのだろう。どこでどんな男と出会うのか? 僕は車を見失わないように目を光らせて追尾しつけた。
尾行は神経が疲れる仕事だ。『人類学入門』では腐るほど尾行調査をやったが、相手が気付いているのではないかと深読みしすぎると胸が痛くなり疲れる。刑事や興信所の調査員は仕事だから慣れてくるが、映画のために尾行するのは時折り馬鹿らしい気持にも襲われる。
特に車での尾行は退屈で充実感がない。この日も、2時間も追尾したのに女はラブホテルにいく気配がない。
「あの女、本当に売春をしに行くのかね?」
「近所の人に顔見られたらアウトだからね、秘密の場所を持っているんだろう……」
傳さんも自信がなさそうだ。しばらくすると宇都宮の町にはいる。
「こんな遠くに来て売春するのも大変だね」
「そろそろラブホテルに入るかもね。見失わないように気をつけよう……」
僕らは身を引き締め、バックからカメラを出して用意する。しかし、女の車はスピードを落とす気配もなく、宇都宮を抜けて走り続ける。
「おかしいなぁ……?」
もう3時間も走っているのだ。このまま行けば白河を抜けて福島に入るってしまうのだ。
「別な用件かもね?」
「東北の実家に行くのかもしれないしね」
さすがに僕らも疑問を抱くようになり、本日は中止しようと決めて、東京で首を長くして待っている今村さんに電話を入れた。
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企業PRセンターのボス・河村清信氏 |
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今村さんが僕らを誘いこんだ「主婦売春」の新聞記事 |
元の木阿弥「そうか……残念だね。いや、ご苦労さんでした。いま、俳優座の浜田さん(俳優の浜田寅彦氏)を呼んだので直ぐ戻っていらっしゃい。君たちのお疲れマージャンを用意したから」
今村さんは短く言って電話を切った。
「やっぱり……」
僕と傳さんは黙って顔を見合わせた。
今村さんに呼び出され、「君たちにお小遣いを上げようと思ってね……」そう切り出されたとき、僕は思わず噴出しそうになったのを思い出した。今村さんが金を持っていないのを一番よく知っているのは我々なのだ。でも、「戻ってきてくれ!」と素直にいえないのが師匠の苦しい心情なのだ。売春の調査ひとつでも、運転手の僕がいなければ師匠は動くこともできないだろう。いくら僕らが女遊びが好きでも、“主婦売春”の言葉に釣られるほどの年齢ではないのだ。けれど、そういわざるを得ない殿様の心根が哀れに思えて僕らは調査に協力することにしたのである。
そんな我々の気持を無視して、もう、マージャンの用意をしている。「呆れたね……」夕方、僕らは幡ヶ谷に戻り、監督のマージャンのお相手をした。
その後、「主婦売春」がどうなって企画から消えていったのかほとんどど記憶がない。
一度、小沢昭一さんが参加して打ち合わせをしたことがあるが、題名をつける段階になり、僕が「味自慢」といったところ大受けしたことしか覚えていない。尾行調査では東松原のラブホテルを一晩見張ったことを覚えているが、それも何のために東松原なのか思い出せない。つまり、今村さん自身が企画に執着せず、消え去って行ったとしか思えないのだ。
あれはもしかしたら、僕ら2人を呼び戻すための罠だったのではないか? 大した罠でもないのに、僕らは罠にかかった芝居を装い、今村さんの淋しい気持を救おうとした。信じられないことだが、そんなくだらないことのために僕らはプロダクション設立を中断し、今村さんは僕らの会社設立を諦めるように毎日のようにマージャンで僕らを拘束し続けたのだった。
僕らは自らの力で奴隷解放を勝ち取ったが、リンカーンがいない奴隷解放はあまりに脆弱だった。それから以後、僕らは今までに経験したことがない異様なブラックホールに飲み込まれていったのである。
再び泥のようなマージャンの日々が始まった。僕は諦めて徹底的に今村さんに付き合うことにした。しかし、4人メンバーがいないと成立しないマージャンの召集は大変だった。なぜなら、今村マージャンは午後の2時ごろから開始するのだからだ。普通の人は会社で働いている時間であろう。映画のスタッフも演劇の役者もスタジオで汗を流している時間である。そんな時間に暇を持て余しているのは碌(ろく)な人間ではない。しかし、マージャンは気のあった者ではないと面白くない人間ゲームである。今村さんの場合は特にその傾向が強く気に入った人間しか許容しないのだ。特に僕と傳さんは今村マージャンの必需品で逃げることは出来ない。今村さんの要求に応えるために、当時、僕の電話帳には傳さんをはじめ数人のメンバーの愛人宅や立ち居り先の電話番号がギッシリ書きこまれていた。
「今日、傳さんはどうしている?」
「競輪場じゃないでしょうか」
「3時までに戻るようにすぐ呼びなさい」
僕の一日は傳さんの確保から始まるのが日課だった。傳さんが府中の競輪場で遊んでいると「俳優小劇場の藤田さま……至急、案内所までお越しください」と場内放送が流れる。
本人が気付かなくても、知り合いの予想屋が「傳さん、放送で呼ばれてたよ」と報せてくる。今なら携帯電話があるが、当時はそんなものもなく、呼び出す僕も本当に大変だった。
ある日、夕方になっても傳さんも誰も連絡が取れない。今村さんの機嫌は悪化する一方で家に帰ろうとしない。夕方の6時になって、三日月プロ(西村晃事務所)のマネージャーから、後楽園で行なわれているボクシングの世界タイトルマッチを西村さんと観に行ってるとの情報が入ってきた。「直ぐ電話して、2人を呼び戻せ!」今村さんが怒声を発する。
結局、僕の電話で2人は世界選手権を途中で放棄して駆けつけてくれたが、苦労して入手した高価なリングサイドのチケットをパーにした西村さんの嘆きは大変だったらしい。
「晃ちゃん(西村晃)には1年間ボヤかれたよ」
「ほんと、申し訳なかったね」
「あのころの監督様は異常だったからね……タケちゃんも苦労したね」
40年経た今でも、藤田さんと会うとこの時の話が出る。苦労したのは僕一人でなく、今村太陽系の人たちは皆苦労したのである。
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近くに住んで居たので、 今村さんにマージャンを付き合わされた 俳優の浜田寅彦さん。温和で本当の紳士だった |
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蓼科に駆けつけたり、ボクシング会場から呼び出されたり、 ひどい目に合った西村晃さん。水戸黄門をやり始めてからは、 マージャンにくる時間がなくなった |
『弱虫アリ』モロッコの不運5月の上旬ごろだったか、今村さんが急にモロッコへいくことになった。付属の後輩の鹿島昭一氏から、古都フェズを舞台にした映像詩の制作の相談を受けたからである。鹿島昭一氏は鹿島建設の御曹司で、モロッコの古都フェズに魅せられた建築研究者だった。鹿島氏は今村さんにフェズの魅力を熱く語り、ぜひ、フェズの街の物語を作って欲しいと依頼したのだった。
今村さんは3週間ほどフェズに滞在し、現地に住む渡辺さんという柔道家の世話になり、『弱虫アリ』と題した1時間半ほどのシノプシスを書きまとめて戻ってきた。
「フェズはファンタジックなイスラム文化そのものだ。素晴らしい!」
今村さんは異郷の文化にほれ込み、「俺はムスリム(イスラム教徒)に向いているようだ」
などとご機嫌だった。
「タケシゲ君もムスリムになったらどうかね」
今村さんは勝手なことを言い、自宅の近くにある代々木上原のイスラム教会に僕を連れて訪ねたりした。よくよく考えれば、このあたりから「主婦売春」はフェイドアウトして、僕らは『弱虫アリ』の撮影準備に着手し始めたのではなかろうか。
『弱虫アリ』はフェズに住む貧しい皮染め職人の12歳になる少年の話である。いわゆる劇映画の脚本でなく、今村さんが現地のホテルのレターペーパにボールペンで書き留めたシノプシスだった。この映画詩は鹿島映画社で制作する作品なのだが、台本らしき印刷物を目にした記憶がない。とすれば、我々は今村さんの手書きのオリジナルを複写機でコピーして制作準備をしていたのだろうか……? 30年後に、みんなで『弱虫アリ』の台本を探したのだがどこにも見つからない。いわゆる、幻の「弱虫アリ」だったのだ。
この手書き台本が出てきたのは3年前、今村さんの死後、藤田傳さんの家から発見された。僕らは興奮してコピーしたが、複写原稿そのものが字が薄く読み辛い。特に目の悪い僕などにはほとんど読めない代物だった。そこで、今回の記事を書くにあたり、僕は私設研究科の女子生・笠原希さんにパソコンに打ち直してもらった。40年ぶりに、僕は「『弱虫アリ』を読むことが出来たのだ。本来は丸ごと掲載したいのだが、著作権があり不可能だ。そこで笠原さんに短い梗概にまとめて貰った。
『弱虫アリ』《概要》
アリは12歳。家が貧しいために革細工屋の下働きをしており、学校へ通うことが出来ない。皆からは仲間外れにされている。
ある日、彼は父母に嫌気がさし家出をする。
途中、仕事場の青年たちに出会い、ムスタファの家に泊まることに。球拾いだが彼らのサッカーの練習にも参加でき嬉しく思う。
後日、アリと青年たちはムスタファが借りた車でドライブをする。邸に寄り、女中奉公している姉・ゾラを乗せる。ゾラは美しい娘だ。アリは大好きな自慢の姉である。だがドライブの途中、アリだけ車から降ろされてしまう。アリはゾラと車を必死に探すが見つからない。やっとの思いでゾラを見つけるが、晴着を引き裂かれた無残な姉の姿に衝撃を受け、足を竦(すく)ませる。
翌日の仕事場。そこには姉に酷い仕打ちをした青年たちの姿が。アリに冷やかしの言葉を浴びせ出て行く彼ら。一人になったアリは箱からハミ出た札を手に取る。それを見たムスタファがアリを殴り襲い掛かる。アリは思わず側のナイフを手にし、彼に向ける。
気付くと床は眞っ赤に染まり、床に転がるムスタファの姿。
フラリと表へ出て行くアリ。自分を見る周りの様子に気付き、走り出す。
後ろからは呼子の音。死物狂いで突っ走る。
丘の上に着いたアリはその場で倒れこむ。返り血を浴びた彼の瞳には真っ青な空が写る。
遠くからコーラの祈りが聞こえてくる。
※スクリプト TSP2 笠原希
『弱虫アリ』は5800文字のシノプシスである。ストーリーのエンドマークの後に、下記の「あとがき」が今村さんの企画意図として記されている。僕は長い間今村さんの脚本に付き合ってきたが、こんなことは初めての経験で驚いている。
また、今村さんの脚本も映画も磨きぬかれたリアリズムで抜き身に触るように恐ろしい。それに比べると、『弱虫アリ』はリリシズムに貫かれたロマンチックな珍しい作品である。
「少年の日、誰しも覚えるあの不安と感傷と躍動する心とを以て、このセミ・ドキュメンタリィ・フィルムは綴られることになるだろう。
深い水底を眺めるような透明さが、この映画の画面の基調となるであろう。
これは一篇の映画詩である。 今村昌平」
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幻の台本「弱虫アリ」の表紙 |
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台本の一部 |
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今村さんが撮りたかった皮染め工場の景観 |
『弱虫アリ』はモロッコを舞台にした映画なので諸準備が大変だった。
日本側のスタッフはカメラマンに姫田真左久氏、アリの父親役に西村晃氏を起用し、その他はすべて現地のスタッフや俳優を使うことにした。つまり、劇映画ではなく、ドキュメンタリー撮影の布陣で臨むことにしたのだった。しかし、こうした撮影体制を組み上げるのには先発隊の準備が必要である。今村さんは藤田傳さんと通訳の渥美さんの2人を6月にフェズに派遣した。今村さんは非常に行動力のある人で、現地で台本を書き上げると、ロケハンをし、俳優を決めて帰ってきたのだった。そうした仕事は、現地で通訳をしてくれた柔道家の渡辺氏が付き合ってくれたので、傳さんは渡辺さんの協力で行動することになっていた。
とはいえ、撮影には準備しなければならないことが山ほどある。サハラ砂漠でのラクダの群れや、各場面のエキストラも数を割り出して用意しなければならない。6月初旬に藤田さんたちが出発した。本体はひと月後の7月の25日にモロッコ入りする日程が組まれた。僕はさっそく、現地へ送り出す撮影機材などの準備に取り掛かった。
『弱虫アリ』は今までの今村作品と全然違うものになるだろう。そうした期待が姫田カメラマンや西村晃さんに漲(みなぎ)っていた。姫田さんは、『果てしなき欲望』『豚と軍艦』『にっぽん昆虫記』『赤い殺意』『人類学入門』の撮影を担当し、若い今村監督を巨匠に育て上げてきた名カメラマンである。もともとは美術学校を出たアーチストで、大ベテランだが新たな冒険に挑む前衛的な芸術家だった。
西村さんがアリの父親を演ずるのも意表を突くキャステイングである。日本人の俳優がアラブ人の貧しい皮染め職人を果たして演じられるのか? 普通の常識では考えられないことを今村監督は平気で実行してしまう。
誰もが想像だにしなかった日本映画が現出する。僕らだけでなく、鹿島映画の人々も『弱虫アリ』に期待を膨らませていた。7月の15日、僕は機材のコンテナを羽田空港に運び込んだ。映画の機材は通関業務が難しい。特にアフリカのモロッコでは、通関に何日かかるか分らないから不安になる。撮影隊が到着しても機材が出てこなくてひと月足止めを食った話も聞こえてきて落ち着かない。それでも、僕は鹿島映画の人や通関業者に手伝って貰い羽田に機材を送り込んだのだ。いよいよ1週間後にはモロッコへ旅立つことになるのだ。僕らは心のスイッチを撮影モードに切り替えた。
出発を2日前にした日の夜、鹿島映画にモロッコの傳さんから緊急のテレックスが飛び込んできた。主都ラバトでクーデータが勃発したらしく、空港や街の機能が全面ストップして混乱状態になっている。日本側でも調べて欲しいとの連絡だった。
「何だって、クーデターが起きた? そっちの状況はどうなってるんだ!」
僕らは仰天して、藤田さんたちのホテルや渡辺さんの自宅に電話をかけたが、国際電話がパリまでしか通じない。いくらかけてもパリのオペレーターはモロッコの回線が遮断されたと繰り返すだけで埒(らち)があかない。
鹿島映画側も傳さんたちの身の安全を心配して外務省に問い合わせてくれるが、外務省も実態が把握できないと困惑している始末だ。僕らは気が狂いそうになって国際電話をかけまくった。3日目になって、イタリア経由でやっとラバトに来ていた傳さんと交信出来たが、クーデターが失敗したらしいとしか分らない。
「それで、撮影隊の入国許可は可能なのかね!」
今村さんが必死に聞くが、現地に住む渡辺さんにも皆目分らないという。「とにかく、もう少し状況を見まもるしかないないな」今村さんは、僕に航空券の延期を指示した。
あの時はまるで悪夢の中をさ迷っていた気持だった。いま、思いだしながら書いていても、突然、指の間から幸せがこぼれ落ちていく……そんな絶望感に襲われた記憶しか残っていない。10日後、僕らは陸軍士官候補生によるクーデターが未遂に終わったことを知って安堵したのだが、その折に流れ弾が撮影許可を出す内務省の大臣に当るという最悪の事態をも知らされたのだった。
担当大臣が死んだら次の新大臣が業務を受け継ぐのだろう……そう反論してみたが……来年まで無理みたいですとしか返事が返ってこない。よりによって担当大臣が流れ弾に当るなんて、不運すぎるではないか。他の大臣に当れば我々は撮影にいけたのにと不運を呪ってみたが、来年まで待つわけに行かないと鹿島側も判断し、『弱虫アリ』の撮影は正式に中止された。
鹿島映画社は僕らに相応のギャラを払ってくれたが、総額4000万円もの損失を出して気の毒だった。俺たちはなんて運が悪いんだろう。僕は嘆いたが、今村プロの先行きはますます霧にかすんで見通せない。1971年は希望の年になるはずだったのになぁ……。僕は八重洲口のプロダクションを思い出し溜息をついた。
(つづく)
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サハラ砂漠でラクダを調達する藤田傳 |
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アフリカの猛暑に耐えたのだが、この直後にクーデタが起きて すべてが蜃気楼の彼方に消えてしまった |